明道館パレード

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イベントスケジュール

小雨決行・荒天中止

時 間 内 容
11:30〜 みやこんじょ歴史絵巻明道館パレード
都城島津邸⇒神柱宮

イベント内容・時間は、変更になる場合があります。

パレードコース

パレードコースの地図

歴代都城当主やお姫様に扮した行列が、
コースを練り歩きます。
沿道にてぜひご覧ください。

歴代都城当主やお姫様に扮した行列が、コースを練り歩きます。
沿道にてぜひご覧ください。

パレード順列

※2019年のパレードは下記の上から順番に並びました。
※クリックすると詳しい説明が表示されます。

都城領主
都城島津家二十九代ご当主島津久友様です。
ご嫡男 久豊さまとともにパレードに加わります。
五口六外城の媛
都城島津氏が治めていた領地は、最大で約四万石もありました。これは大名にもひけをとらない規模です。
そこで、都城島津氏は領内を11に区画し、それぞれに地頭を置いて治めました。これを「五口六外城」と呼んでいます。その六外城 (安永・山田・志和池・野々三谷・梶山・梅北)それぞれのお姫様をイメージした着物姿の女性がパレードを彩ります。
熊本城おもてなし武将隊
熊本の【熊本城おもてなし武将隊】から、島津義弘、黒田官兵衛、大村喜前が登場します。島津発祥まつりでは熊本城の復興支援の募金活動も行っておりますので、皆様のご協力をお願い致します。
平 季基
平季基は太宰府の役人で、万寿年間(1024年〜1028年)に未開の地であった日向国諸県郡島津院を中心として荘園を開墾し、それを関白藤原頼通に寄進しました。これがのちの中世最大の荘園「島津荘」の始まりです。いわば季基は「島津荘」の祖であります。
また同時に「島津荘」の総鎮守として神柱大明神を勧請(かんじょう)しました(現在の神柱宮)。
丹後局と忠久公
島津家誕生
島津宗家初代当主忠久の誕生にまつわるこのような伝説があります。
ー源頼朝の側室であった忠久の母・丹後局は、頼朝の子を身篭ったことで、正室(北条政子)に追放されてしまいました。その後、摂津の国、住吉(住吉大社)へ行った丹後局は、その境内で、雨の降る夜更けに狐の火を借りて男の子を出産しました。その男の子が、後の島津家初代当主となる忠久です。ー
この伝説から、島津家では出立や神事などに降る雨は縁起の良いものとして「島津雨」と言われています。
北郷家初代 資忠
都城島津北郷(ほんごう)家の誕生
北郷資忠は、島津宗家四代当主である島津忠宗の六男として生まれました。
「筑前国金隈合戦」の功により、1352年(文和元年)、「北郷300町」を室町幕府より与えられた資忠は、居城を現在の都城市山田町の「薩摩迫」に定め、地名を取って姓を「北郷」に改めました。ここから北郷家(都城島津家)の歴史がスタートするのです。
初代資忠勧請 諏訪大明神
都城島津(北郷)家初代資忠が文和4年(1355)に創建したと言われています。資忠は鹿児島にある時、鹿児島諏訪神社に参詣しましたが、その時鎌が飛んできて彼の袖に入ったといいます。資忠は山田の薩摩迫に入り、庄内の地に諏訪神社を創建し鎌をご神体としました。代々の領主に尊崇され、領主の参詣道中は盛んなものでした。
北郷家八代 忠相
都城盆地の統一
戦国時代初期にはわずかに都城と安永城(都城市庄内町)を支配するだけの北郷氏でしたが、八代忠相の代では、度重なる戦いにより所領を拡大し、ついに現在の都城市、三股町、曽於市を含む都城盆地をほぼ統一するに至りました。「北郷家の中興の祖」ともいえる目覚ましい活躍でした。
文禄の役と高麗虎狩
北郷家十一代忠虎は、文禄元年(1592)、豊臣秀吉の朝鮮出兵により、釜山に着陣。その後は毛利高政の配下となり江原道まで転戦。しかし2度目に朝鮮に渡った際、唐島(現在の加徳島とされる)で病死しました。この灯籠は朝鮮半島での島津軍の虎狩りを描いたものです。
琉球出兵と安久武士
琉球出兵と安久武士
慶長14年(1609)、藩主島津家久の命により、忠能の軍代北郷久武率いる都城の武士たちは、琉球出兵に参戦することになりました。その際、士気を鼓舞するために歌い出された「陣中歌」が安久節と言われています。
晴れの席や飲み座、客送りに通じるところから、「打立ち唄」とも呼ばれ、戦時中には出征兵士を見送る道中でも歌われました。「鹿児島小原節」のルーツになったという説もあります。
十五代 久直夫人おんな城主春嶺
都城唯一の女性領主
寛永18年(1641)、北郷氏十五代当主の北郷久直は25歳の若さで死去し、男子がなかったので、北郷氏は一時期当主不在となりました。
当主不在の間、久直夫人であった北郷氏十二代当主北郷忠能の娘、春嶺が家老の補佐を受けながら、明暦2年(1656)までの16年間、都城の治世を行ったとされています。
都城最初の学校 明道館
明道館は、都城で一番初めにできた学校です。江戸時代の中頃、都城島津家二十二代島津久倫によってつくられました。それ以来、都城の青少年の教育の場として、論語などの学問や、武道の稽古、体の鍛錬などを行ってきました。明治時代になって、その名は明道小学校への引き継がれました。その歴史の中で定められた「学制三章」は、今でも明道小の校舎の壁に掲げられています。
京都御所の護衛二十五代久静
京都御所の護衛
久静は、幕末、公武合体に奔走した薩摩藩の実力者・島津久光の娘婿で、文久2年京都御所護衛のため都城兵300を率いて上洛しました。まさに都城島津家が中央で輝こうとしていた矢先、久静は麻疹(はしか)にかかり、急死してしまいます。家臣たちは、久静の死を隠し、役目を全うし、お家の危機を乗り越えました。
久静の陣羽織は当時としては珍しいビロードや二重のフリルなどが施された、大名クラスの儀礼装束でした。
都城六烈士と新選組
戊辰戦争前年の1867年12月、伏見で幕府軍の動きを偵察する斥候や警備に当たっていた都城一番隊の隊士6人は、幕府側の新撰組数十人の武装行軍を発見しましたが、斥候の任務は戦わずに報告するのが本命と、直ちに本部に報告しました。
しかし、その後都城隊は前線から後衛に転陣を命ぜられたこともあり、他の隊から応戦せず逃げ帰ったと中傷を受けた彼らは、斥候任務を果たしたことを自負しながらも京都・東寺で自害し17歳から23歳という若い命を絶ったのです。
当時、薩摩藩から切腹は軍律違反とされて遺骸は都城に戻されず、6人の墓碑は京都市の狐塚墓地にあります。後年、任務を果たして義心に殉じたと名誉回復され、都城島津家の歴代当主が墓参、そして平成30年には都城島津家墓地に慰霊碑を建立しました。昨年、六烈士没後150年を迎えました。
錦の御旗
鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩藩の本営であった東寺に「錦旗」が掲げられました。官軍の証である錦旗の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場となった江戸幕府側に非常に大きな打撃を与えたと言われています。
都城私領一番隊
戊辰戦争
慶応4年(1868)1月3日、幕府軍1万五千と薩摩・長州連合軍5千が鳥羽・伏見(京都府南部)で戦いをはじめました。以後1年半に及んだ戦いが戊辰戦争です。
都城島津家も藩の命令を受けて、家臣123名から編成された「私領一番隊」(都城隊)を出兵させました。都城隊は、鳥羽・伏見の戦いで奮戦しました。このように、都城の人たちも、日本の歴史を大きく変えた戊辰戦争に参加していたのです。
子ども武者と島津姫

参加者募集

歴史好きな人集え!!

島津発祥まつりでは一緒にパレードに参加したい応援部隊を随時募集しております。自分のオリジナルの衣装を着て一緒に伝統ある文化にふれあい、記念に残る日にしてみてはどうですか?県外の方も大歓迎しております。                  

パレードの様子