明道館パレード

イベントスケジュール

小雨決行・荒天中止

時 間 内 容
11:30〜 みやこんじょ歴史絵巻明道館パレード
都城島津邸⇒神柱宮

イベント内容・時間は、変更になる場合があります。

パレードコース

パレードコースの地図

歴代都城当主やお姫様に扮した行列が、
コースを練り歩きます。
沿道にてぜひご覧ください。

歴代都城当主やお姫様に扮した行列が、コースを練り歩きます。
沿道にてぜひご覧ください。

パレード順列

※本年(2024年)は下記の順番のパレードとなっており、写真は2023年をベースにしたものになっております。
※クリックすると詳しい説明が表示されます。

都城島津家領主
まずはじめにご紹介いたしますのが「都城領主の隊列です。山車(だし)の上に着座いたしますのは、およそ6 5 0 年以上続く都城島津家2 9 代ご当主の島津久友様とご子息久豊様です。
そして、都城領主の先頭に参列しておりますのが、みやこんじょPR 大使であるフリーアナウンサーの中西可奈(なかにしかな)さんです。
島津発祥まつり振興会の田代義博(たしろよしひろ)会長をはじめとする役員の皆様、そして南九州大学、都城商業高校の皆様もパレードに参加していただいております。
島津家の護衛としてご参加いただきました。
五口六外城の姫(いつくちむとじょうのひめ)
続きまして「五口六外城の姫」の隊列です。
今年はロータリークラブ交換留学生(台湾からの留学生)ちはゆさんと(ポーランドからの留学生)スタンさん、(フィンランドからの留学生)ウィルホさん、(アメリカからの留学生)チャーリーさんです。
熊本城おもてなし武将隊
続きましてゲストとして「熊本城おもてなし武将隊」から「島津義弘」・「細川忠興」が参陣してくださいました。「熊本城おもてなし武将隊」は熊本城を拠点に威風堂々と日ノ本一のおもてなしを目指して活動をされております。
後ほど神柱公園で開催中の島津荘園ステージで素晴らしい演武を披露していただきますのでそちらも楽しみにして下さい。
島津荘開拓の祖平季基
続きますのは、平季基(たいらのすえもと)です。
平季基(すえもと)は太宰府の役人で、未開の地であったここ日向国諸県郡島津院の地を開墾しました。これが中世最大の荘園「島津の荘」の始まりです。いわば「島津の荘」の祖であります。
また同時に「島津の荘」の総鎮守として神柱大明神を勧請(かんじょう)しました。現在の神柱宮です。神柱宮の祖でもあります。
平季基(たいらのすえもと)役は小岩屋芳郎(こいわやよしろう)さんが扮しております。
島津家の誕生丹後局と忠久公
大のぼりのあとに続きますのは、「島津家誕生」の隊列でございます。
山車(だし)に乗っておりますのは、島津宗家初代忠久(ただひさ)公の幼少期と母・丹後局(たんごのつぼね)でございます。
初代忠久公誕生にまつわるこのような伝説がございます。
源頼朝の子を身ごもった丹後局(たんごのつぼね)は、正室・北条政子に妬まれたため鎌倉を逃れ、摂津国住吉大社までたどり着き、雨の降る夜に狐火に照らされて男の子を生みました。
それが島津初代忠久公です。山車の押し手役が被ります狐のお面はその狐火伝説を表現しております。
忠久公役は(こだまふうと)君、丹後の局役は(こだまひとみ)さんです。
北郷家の誕生
続きまして「北郷家(ほんごうけ)の誕生」の隊列でございます。
北郷資忠(ほんごうすけただ)は、島津宗家4 代当主島津忠宗の六男として生まれました。
時は南北朝時代で、足利氏に従い北朝方の武将として南朝方と戦った資忠(すけただ)は、その功績が認められて、室町幕府より庄内北郷(ほんごう)の地3 0 0 町を与えられ、居城を現
在の都城市山田町の「薩摩迫」に定め、地名をとって姓を北郷(ほんごう)と改めました。ここから北郷家(ほんごうけ)のちの都城島津家がスタートいたします。
山車(だし)の上は、北郷資忠(ほんごうすけただ)と今も関之尾に伝わる悲恋物語「お雪さんの盃流し」のエピソードを表現いたしました。
北郷資忠(ほんごうすけただ)と家臣団に扮しますは、庄内商工会会長の河野一治(こうのかずはる)さんと山田の昔を語る会、都城商業高校の皆さんでございます。
また、お雪さんに扮するのは、都城観光レデイの桑田睦子(くわたむつこ)さん、矢野有紗美(やのあさみ)さん、永田彩乃(ながたあやの)さんです。
初代資忠勧請(しょだいすけただかんじょう) <br>諏訪大明神
家臣団の後に続くのは、初代資忠(すけただ)が創建したとされます、庄内町諏訪神社の祭礼の隊列でございます。庄内中学校の生徒さんたちです。
「都城盆地の統一」※騎馬武者
続きまして「都城盆地の統一」の隊列でございます。
戦国時代初期には、四方を敵に囲まれ、わずかに都島の都之城と庄内町の安永城を支配するだけの北郷家でしたが、8 代忠相(ただすけ)の代では、度重なる戦いにより所領を拡大し、
ついに、現在の都城市、三股町、曽於市を含む都城盆地をほぼ統一するに至りました。「北郷家の中興の祖」とも言える目覚ましい活躍でした。
馬上の忠相(ただすけ)役は、都城市長池田たかひさ様でございます。
市長着用の甲冑は、高城郷土資料館所有の、忠相(ただすけ)所用と伝えられます鉄錆地南蛮胴具足(てっさびじなんばんどうぐそく)のレプリカでございます。鯨髭(くじらひげ)の脇立てをもつ当世具足の名品のひとつと言われております。忠相(ただすけ)の隆盛が偲ばれます。
文禄の役と高麗虎狩
続いて通過いたしますのは高麗虎狩図の大灯篭でございます。
高麗虎狩図は豊臣秀吉の文禄の役で朝鮮出兵した島津軍の活躍とその時現地で行われた虎狩の様子を描いたものです。江戸初期に描かれたと思われるこの高麗虎狩図屏風は、6 曲1 双が
島津伝承館に現存しております。
またこのとき北郷家からは1 1 代当主忠虎が朝鮮に出兵し、各地で転戦し活躍しましたが、2 度目に出兵した際、現地で病死いたしました。参加していただいていますのは鹿児島銀行の皆さんです。
「琉球出兵と安久武士」 ※安久節踊りあり
続きまして「琉球出兵と安久武士」でございます。
1 6 0 9 年島津宗家島津家久(いえひさ)の命により、1 2 代北郷忠能(ただよし)の軍代北郷久武(ひさたけ)率いる都城の武士たちは、琉球へ出兵することになりました。その際、士気を鼓舞するために歌われていた「陣中歌」が安久節と言われております。
晴れの席や飲み座、客送りに通じるところから、「打立ち唄(うったちうた)」とも呼ばれ、戦時中には出征兵士を見送る道中でも歌われました。
鹿児島の「おはら節」のルーツになったという説もございます。
馬上の軍代北郷久武(ひさたけ)役は、宮崎銀行都城営業部部長和田健一朗(わだけんいちろう)さんです。安久武士並びに踊り手は
十五代久直夫人春嶺
続いて通過いたしますのは、「十五代久直夫人春嶺(しゅんれい)」の隊列でございます。
北郷家1 5 代久直は2 5 歳の若さで死去し、男子に恵まれておらず、北郷家は一時期当主不在となりお家断絶の危機となりました。
当主不在の間、久直夫人であった1 2 代当主忠能(ただよし)の娘、春嶺が家老の補佐を受けながら、1 6 年ものあいだ都城の治世を行ったとされています。
そして、春嶺役は、遠田暖菜(とおだはるな)さんです。
またその春嶺を護衛するなぎなた隊はドミニコ学園の生徒の皆さんです。
明道館
続く隊列は「明道館」の一行です。
明道館とは、江戸時代の中頃、都城島津家第2 2 代島津久倫(ひさとも)公によってつくられた都城で最初の学校です。それ以来、都城の青少年の教育の場として、論語などの学問や、武
道の稽古、体の鍛錬を行ってきました。
明治になって、その名は明道小学校へと引き継がれました。場所も現在の明道小学校の所にありました。
その歴史の中で、学ぶ人が守るべき3 つの教えが定められました。それが「学制三章」と呼ばれるものです。この「学制三章」は、現在の明道小学校でも大事にされ、校舎の壁に掲げられています。
隊列は、明道小学校の校長先生や先生方、そして児童の皆さんです。
「京都御所の護衛」※騎馬武者
続いて通過いたしますのは、「京都御所の護衛」でございます。
都城島津家2 5 代当主島津久静(ひさなが)は、幕末、公武合体に奔走した薩摩藩の実力者・島津久光の娘婿で、文久2 年京都御所護衛のため兵3 0 0 を率いて上洛しました。都城島津家が中央で輝こうとしていた矢先、久静(ひさなが)は麻疹(はしか)にかかり、急死しました。
家臣たちは、久静(ひさなが)の死を隠し、役目を全うし、お家の危機を乗り越えました。
久静(ひさなが)の陣羽織は当時としては珍しいビロードや二重のフリルなどが施された、大名クラスの儀礼装束でした。
その陣羽織を着て久静(ひさなが)役に扮しますは、都城青年会議所川田匠(かわだたくみ)理事長です。
久静公の従者に扮しますのは、都城青年会議所の皆さんです。
都城六烈士と新選組
続いてやってきました隊列は「都城六烈士と新選組」の一行です。
戊辰戦争前年の1 8 6 7 年1 2 月、伏見で幕府軍の動きを偵察する斥候や警備に当たっていた都城一番隊の隊士6 人は、幕府側の新撰組らしき数十人の武装行軍を発見しましたが、斥候の任務は戦わずに報告するのが本命と直ちに藩邸に報告、藩は直ちに兵を現地へ繰り出しましたがそこにはすでに新選組の姿はありませんでした。
その後都城隊は前線から後衛に転陣を命ぜられたこともあり、他の隊から応戦せず逃げ帰ったと中傷を受けた彼らは、斥候任務を果たしたことを自負しながらも京都・東寺で自害し1 7 歳から2 3 歳という若い命を絶ったのです。
六烈士の最少年大峰壮之助は「武士(もののふ)の義の一筋に思い立ち、命は露も思はざりけり」との辞世の句を残しました。
戊辰前夜都城の若者によるもう一つの伏見の戦いがあったのです。
六烈士に扮するのは、庄内中学校の生徒の皆さん、そして新選組役は宮崎太陽銀行の皆さんです。
都城私領一番隊
錦の御旗に続きますは、都城私領一番隊です。
慶応4 年1 月3 日、幕府軍1 万5 千と薩摩・長州連合軍5 千が京都鳥羽·伏見で戦いを始めました。以後1 年半に及んだ戦いが戊辰戦争です。
都城島津家も藩の命令を受けて、家臣1 2 3 名から編成された「私領一番隊」を出兵させました。一番隊は鳥羽・伏見の戦いで奮戦したのち、江戸・ニ本松・会津若松と転戦しました。このように、都城の人たちも、日本の歴史を大きく変えた戊辰戦争に参加していたのです。
一番隊隊長に扮して馬(うま)に乗っておりますのは、陸上自衛隊都城駐屯地の石岡直樹(いしおかなおき)都城駐屯地司令とこの一番隊に扮して行進しているのは、陸上自衛隊都城駐屯地の皆さんです。
第1 回目のパレードから一番隊として参加していただいております。
子ども武者と島津姫
続いて勇ましい子ども武者は、
可愛らしい島津姫たちは、上町(かんまち)祇園山車とどもたちです。
薩摩日置鉄炮隊
最後に薩摩日置鉄炮隊は、島津初代藩主の父•島津義弘公が関ヶ原の戦いで、火縄銃を駆使して敵中突破した武勇にちなみ、2 0 1 5 年(平成2 7 年)有志が鉄炮隊を結成しています。
鉄炮隊は、女性2 人を含む3 0~7 0 代の3 5 人が各地のイベントに出演しています。
大将を逃すための鬼気迫る捨て身戦法であり、関ヶ原の敵中突破で用いられた捨て身の戦術である「捨てがまり(座禅陣)」と言われる戦法があります。
「島津の退き口(のきぐち)」と言われるこの戦法は、全国に知れ渡ったと、言われています。
逃走する道筋に点々と狙撃兵を残し、撃兵は座り込んで撃ち、敵兵を足止めし、全弾撃ち尽くしえば、あとは特攻をかけるのみとなります。
薩摩独特の撃ち方をし、鹿児島の伝統的な鉄炮の技と迫力を観覧者に披露しています。