島津について

島津発祥ゆかりの史跡

「島津発祥の地」都城では都城島津家の歩を様々な場所で知ることができます。
あなたも都城の歴史や文化を学んでみませんか?

島津邸
島津邸
都城島津(北郷)家第26代当主島津久寛が明治12年(1879年)に、早鈴神社があった土地の提供を受けて居宅を構えた。現在、都城島津家に伝来された1万点以上の文化財が保存されている。
祝吉御所跡
祝吉御所跡
奈良時代から祝吉、郡元、早水付近は島津という地名で呼ばれていたが、鎌倉時代、惟宗忠久が祝吉に館を立て、島津の姓を名乗り、これが島津氏の発祥とされる。そのことから、祝吉御所跡に島津発祥の碑が立てられている。
寒天工場跡
寒天工場跡
幕末、薩摩藩は財政が困窮していたため、財政立て直しのために、中国やロシアに密輸する寒天を作るための工場を山之口町永野に造った。現在、窯跡が残っている。
歴代島津氏と家臣の墓(島津墓地)
歴代島津氏と家臣の墓
(島津墓地)
北郷家第8代当主北郷忠相が母の菩提を弔うために創建した。以後、都城島津家の当主や有力家臣などの墓地となった。
神柱宮
神柱宮
大宰府の大監(だいげん)という役職にあった平季基が万寿3年(1026年)、当地の開発を行い、島津の荘を開き始めた。そして、島津の荘の総鎮守として伊勢神宮を自分の住まいのあった梅北に勧請したのが神柱宮の始まりである。明治6年(1873年)、桂久武が都城県の総鎮守として、小松原の現在地に移した。
島津稲荷神社
島津稲荷神社
惟宗忠久が創建したとされる。島津氏の初代とされる惟宗忠久は、源頼朝と丹後の局との間に生まれた子どもであるという伝説がある。その伝説では、丹後の局は大阪の住吉大社で大雨の中、産気づき、狐火の明かりの下で忠久を出産したとされている。このため、島津氏は、雨を吉とし、狐火は住吉大社の末社の稲荷神社の加護であるとして、稲荷神社を尊崇した。
石山観音寺
石山観音寺
安産の神様として古くから尊崇されてきた。石の門には薩摩の丸に十字の紋が残る。
東霧島神社
東霧島神社
天長6年(829年)創建と伝わる。鬼が作ったと称される石段が見事であり、刀で両断したかのような大石は神石と呼ばれる。島津宗家の武将、島津家久は大阪夏の陣に出陣するとき、梵鐘を寄進し、この梵鐘は県の需要文化財となっている。
都城跡
都城跡
北郷家第2代当主北郷義久が天授元年(1375年)に当時都島と称されていた大淀川沿いの丘に城を築き都之城と呼んで居城とした。現在の資料館があるところが本丸跡であり、元和元年(1615年)の一国一城令により、新たに建設した領主館に移るまでの240年間北郷氏の居城であった。
旭丘神社
旭丘神社
創建は不明だが、古くから天神が祀られていた。後に楠正成と島津義弘などを祀り軍人社と呼ばれた。そこで神社のある丘のことを天神山とか軍人山とか呼んだ。
兼喜神社
兼喜神社
祭神は北郷相久。相久は父時久より無実の罪に問われ29歳で自刃した。その死後、無実を知った時久は、若宮八幡を創建してその霊を崇めた。その後名称が変わり現在に至っている。
天長寺
天長寺
北郷家第8代当主北郷忠相が天文7年(1539年)に、祈願の道場として創建した真言宗の寺である。祈願や祈祷の寺として現在まで継続してきている。
旧島津家米蔵屋敷門
旧島津家米蔵屋敷門
都城島津(北郷)家第19代当主島津久龍が元禄12年(1699年)給地蔵制度を導入した際に、下屋敷に米蔵4棟を設置した。現在は通用門のみが残り、摂護寺の通用門となっている。
都城六烈士受難慰霊碑
都城六烈士受難慰霊碑
戊辰戦争前年の1867年12月、伏見で幕府軍の動きを偵察する斥候や警備に当たっていた都城一番隊の隊士6人は、幕府側の新撰組数十人の武装行軍を発見したが、斥候の任務は戦わずに報告するのが本命と、直ちに本部に報告した。  しかし、その後都城隊は前線から後衛に転陣を命ぜられたこともあり、他の隊から応戦せず逃げ帰ったと中傷を受けた彼らは、斥候任務を果たしたことを自負しながらも京都・東寺で自害し17歳から23歳という若い命を絶った。  後年、任務を果たして義心に殉じたと名誉回復され、平成30年(2018年)には都城島津家墓地に慰霊碑が建立された。
二厳寺跡(春麗の墓)
二厳寺跡(春麗の墓)
明治10年(1877)の西南戦争で西郷軍として従軍した戦死者134名の慰霊碑です。西南戦争には都城郷から総勢1,556名が参戦しています。
また敷地内には、「勝海舟の作詩並びに書の碑」(明治14年回想)があります。この碑は戊辰戦争の江戸城明け渡し会見以来、西郷を敬愛していたとされる勝海舟へ、東京在住の生存者一同が依頼して明治14年に建てられたといわれています。